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原田勇先生との出会い

掲載日:2013.08.21

札幌市

グレイス 小貫 満子

(旧姓:利根川)

2012年12月16日、私の敬愛する原田勇園長の急逝の報を細田冶憲氏から受けた時、

初夏のころにそれはお元気そうな先生に接していただけに、残念無念としか言えない、

寂しい思いで一杯になりました。酪農学園報の中で、先生の生い立ちと長年培われた、

信念、学園全体に深い期待を以て、呼び掛けられる教育理念を事細かに記された記事を読ませて頂き、深い感動と尊敬を以て、すぐ電話を入れました。「先生、素晴らしい記事を読ませて頂きました。先生の学園に寄せる愛と思いが、すべての職員と学生たちに浸透しますように。先生の貴いお働きをお祈りしています。」と申し上げますと、「有り難う!利根川さん、いつも蔭で祈り続け、支えて下さること、僕には必要だし、何よりもありがたいです。」と先生は言ってくださいました。今、主の聖国に迎い入れられた先生の魂の上に、豊かな祝福と平安がありますように。又、残された綾子夫人とご家族に慰めと、良き支えがありますようにお祈り申し上げます。

 さて、私は、1959年留学先から帰国するや、当時、酪農学園園長黒沢酉蔵氏、短期大学学長樋浦誠氏、宗教主任神塚アーサー宣教師、野幌教会牧師佐々木悟史氏等の招きに応じ、東京からは悠か離れた野幌にやってきました。国鉄野幌駅から、徒歩10分の

敷地に佐々木先生の牧会する日本基督教団野幌教会と農村大地区センター・付属幼稚園・牧師館がありました。そこからずっと凸凹道に札幌方面に通じる国道に沿って、学園の職員家族が生活する数多くの木造平屋職員住宅、そして教会に一番近く短大生の生活する二階建てペテロ寮、更に新設された酪農学園三愛女子高等学校と女子寮が立ち並んでいました、更に起伏のある丘に広大な牧草畑が何キロと広がり大地を取り巻き原始林が広がるといった都会に見ることのない光景でした。そんな中に機農高等学校・通信教育校舎、そして学生たちの実習する牛舎・サイロ、坂を登った斜面に獣医学研究室と教室、その下に農機具置き場、自由寮・イザヤ寮・そして短期大学校舎諸研究室・野外礼拝堂を囲む森の下に鶏舎、脇近くにマルコ寮、更に乳製品工場研究室、農場職員の木造家屋があちらにポツン、こちらにポツン。若い白樺並木の向こうには赤煉瓦の希望寮

と隣接して美しい牛舎サイロがあり、牧草畑は更に広く続き、遥か先の小高い丘にダビデ寮、がありました。樋浦学長夫妻の公宅といえば、丘を高く上った原始林をバックに二階建て木造建築がそれはさびしげに、ポツンとありました。国鉄レールに沿って、札幌に通じる舗装されない国道12号線は、一時間ごとに、二本位、江別札幌間をバスが往復していました。近代建築の整った現在の便利さの中で学ぶ学生達には、全く想像しがたい石狩原野の光景でした。国鉄レールの防風林の向こう側はレンガ工場やまばらに農家が存在するほか一面の農場、石狩の原野が広がっていました。このような環境では、

農場関係者と点在する学生寮の責任者以外の職員家族の大方は野幌駅に近い職員住宅での生活でしたので、当然、私もその一棟での生活をスタートしました。戦後到る所に見られたバラック住宅です。玄関に隣接する台所にはポンプ式くみ上げ井戸に流し台、ガスコンロとちょっとした戸棚があり、玄関を上がった居間は煙突付きルンペンストーブのあるフローリング・その両隣に和室という、質素な生活を職員家族の殆どがしていました。そして周りの空き地には、菊の花や水仙・チューリップなど植え、野菜を育てたりできました。そこから皆、広大なキャンパスに点在する働き場に徒歩で往復していました。また、日曜日には野幌教会に家族の多くが礼拝に集まってきました。機農高校、三愛女子校、寮生や、短大生から応募した聖書塾生たちが大勢野幌教会に群がる、世にも珍しい、キリスト者村と言った感じでした。このような職員住宅の一つに、若き原田勇ご夫妻もまた、幼い御嬢さんを育てながら生活されており短大での仕事に励んでおられました。また今は亡き中曽根、池田、高松、土橋、松井、野村、細川、坂本、村山、野村、山下勝、山下淳志郎、太田、大島、尾崎,永井、野、北村キク、塩入、長谷川、杉船、井上、津田、米田諸先生方、大学・機農校・三愛女子校職員家族が皆共に学園の敷地内に生活する、珍しい環境でした。ですから、お互いに家々を訪ねたり、家族同士の和やかな交流もありました。黒沢酉蔵園長・高杉・牛島・出納諸先生方は札幌に在住しておられましたので、野幌に通われていました。

 学園に学ぶこの時代の学生、生徒と教師陣との関係は今より一層密でした。創立者、黒沢酉蔵先生の掲げる三愛精神を基とする、より高い知性と精神的高度の人造りに、皆一丸となって、協力し合い、働きました。そして有能な学生を、社会に送り出しました。アメリカ、北欧での実習にも積極的に送り出す手助けをしました。更にユニークなことは、大学での学びのチャンスを得られない、道内外各地の農村男女後継者育成のため三愛塾なる(創生期時代の先端をゆくエックステンション・プロジェクト)人造り、村造り、様々な改革を目指し、学長を先頭に、老若職員が共に展開・取り組んだことも、当時の酪農学園の重要な歴史の事業として、忘れてならない特筆すべきことです。酪農学園が未来に向けより一層大きく発展していく途上での、農村各地のニードに応えるべくして、実践した教育の役割は野幌というキャンパス内に集まる学生のみにとどまりませんでした。そのような三愛運動は消えることなく、今も存在しています。当時、酪農学園の周辺に大きく存在する、町村牧場・宇都宮牧場・山田牧場・細田牧場・江別の乳製品工場、雪印乳業その他の多くが学園と密接にかかわりながら、良き人材の育成に貢献し、学を求めて止まぬ若人に力を貸してきました。『井の中の蛙大海を知らず』と申しますが、日本中の村々、都市からやってきた学生たちの多くが野幌の大地に触れ、学び、人が変わったように自信を持って、海外に、日本中の職場に、あるいは新世界を求めて、夢の開拓に巣立っていく卒業生を微笑ましく思いました。

 原田勇先生はこのような歴史ある酪農学園に自ら学び、育ち、なくてならぬ指導者としてたゆまぬ努力と研究を積み重ね、ご自身の信仰を堅く守り、学園建学の精神を受け継ぎ、時を惜しまず、任務を立派に果たされました。学園に4年制大学が創設された年には、私は米国留学から帰道し、前の住家から現在の十号館と本部の辺りにあった米軍キャンプ寄贈のカマボコ型ハウスに、移り住みました。教室からも近く、学生がいつも私の住家にやって来て、学び合い、夢を語り、気持ちよく過ごしていきました。

 年々、女子学生が入学し、増えて行く中、「学生達が、安心して学び、生活しやすい女子寮を建てたい。」と、請願しました。本部は「青写真を描いて持ってきなさい。」との指示でした。私も学生の手助けをし、青写真を描き提出しました。そして、現在の乳製品工場の立つ、辻向かいの一角に女子寮第一号を新設、皆大喜びでした。私は、聖書ヨハネの福音書4:14から引用し、“いずみ寮”と名付けさせて頂きました。何十年も経た現在、その建物は他の目的に使用されているようです。

新設なった、四年制大学は樋浦誠学長・短期大学は原田勇学長のもと、私は専任英語講師として、宗教部チャプレンの神塚アーサー先生をも補佐しながら、大学全体にかかわらせて頂く中、原田先生との交流も一層密になりました。後年、ある春休みに、不意の樋浦誠学長更迭問題で、学生達によるストライキはキャンパス中を揺さぶりました。他の国立大学学生運動のストライキとは異なる内容の大きな出来事でした。その折、私は遊佐学生部長の下での一スタッフでした。高杉成道副学長を頭に寝ずの教授会で閉じ込められたのを記憶しています。学園は樋浦学長3年間学園にとどまる猶予の後、新学長選出により新たな体制での歩みのスタートとなりました。

 1967年6月、私は日本聖公会北海道教区の司祭との結婚を機に、酪農学園を去ることになりました。その折には、私どもの任地であり新居のスタートを祝って、原田勇先生は「教会の庭をケンタッキー・ブルーグラスで美しく。」と仰って、結婚祝いに沢山の種を頂戴しました。種は見事に芽をだし、美しい二本松の根元、周辺が緑いっぱい、教会に集まる方々の潤いの庭になったことを思い出し、お優しい先生の笑顔には感謝が尽きません。

 思いつくまま、古き時代の、原田先生との出会い、学園の様子を記させて頂きました。私達の国籍は天国にあります。いずれまた、お会いするのを楽しみにしています。

また現在の教育現場に残り指導される卒業生の皆様は勿論の事、より分化され、異なる学部教育、研究に没頭される教師陣、関連のスタッフの皆様がこれからの学園をしっかりと担い、日本の未来の為、世界のために、学園の誇りとする教育の理念を貫き、全うされますことを心からお祈りしています。“神を愛し、人を愛し、土を愛する”ハレルヤ! 

2013年2月記


酪農学園大学アジア交流会(2013.08.21)|全件表示, 通信欄
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