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『樋浦誠先生遺稿集』と原田勇先生のこと

掲載日:2013.08.21

北海道平取町

井澤 敏郎

1.『酪農学園短大・大学初代学長樋浦誠先生遺稿集』について

この本は先生の召天20周年に当たる2010年3月に、酪農学園大学酪農学科同窓会から刊行され3年が経ちました。1万部作成され酪農学科卒業生全員と酪農学園教職員全員に配布されたと聞き及んでいます。

1950(昭和25)年酪農学園短期大学開設以来、1960(昭和35)年大学開設のいずれも初代学長として、入学式、卒業式での式辞や学長アワーでの説教と現在で云う大学の公開講座を超えた存在の「三愛塾」での挨拶、さらに後年浜松の聖隷看護短期大学学長としての公式の場で先生が準備された180点にも及ぶ自筆原稿のうち、105点を掲載しています。

これらの自筆原稿は現酪農学園副学園長の仙北富志和(酪農学科1期卒)さんが元機農高校校長室に一部展示、保管されていた資料を整理し、酪農学科4期卒の安藤廣さんが高校を定年退職された後に5年かけて判読、書き起したものが、酪農学科同窓会の事業として出版されたものです。

内容はお手に取った方はお分かりのようにキリスト教信仰、教育、哲学、文学と専門の植物病理学に関する事など多岐にわたります。居並ぶ学生・青年を鼓舞し、列席する役員、教職員を励ますものとなっています。1950年短期大学開設からの15年間、1960年大学開設からの5年間の学長として、塾長としての力強いメッセージで綴られています。

2.原田勇先生と樋浦誠先生

原田勇先生は1943(昭和18)年興農義塾野幌機農学校に入学し、卒業後興農公社勤務の後、戦後1948(昭和23)年野幌機農高等学校3年に編入し卒業しています。1949年4月より6月まで酪農短期大学部に勤務し、7月に帯広畜産大学酪農学科に入学し土壌肥料学を専攻しています。1953(昭和28)年3月卒業後、同年4月1日付で酪農学園短期大学に助手として採用されています。1950年開設の同短期大学の4期目から勤務した事になります。

助手、講師として勤務する中で、短期大学開学当初から夏冬の学生休暇時に年2回開催されていた三愛塾の塾長でもあった樋浦誠初代学長に共鳴し、三愛塾を他の教職員と共に助け、機関誌『三愛』(1955-1978年発行)の編集、印刷、寄稿に協力し、「H生」の名でコラムも長年書いておられます。

3.原田勇先生と私

私は1975年27歳の時に酪農学科16期生として入学しました。IHIという会社の航空エンジンの部門で生産管理の仕事をしていましたが、今で云う社会人入学でした。3年後期からの演習(ゼミ)は原田勇先生を選びました。先生は当時酪農学科長をしておられ、1975年に設立したアジア酪農交流会も主宰されておられたこともあって、大変お忙しいご様子でしたが、同期の学生より10歳の年長であり、航空エンジンという先生には未知の分野の話や企業の事が聴けるためか良く私の話を聴いて下さいました。

卒業論文は『土・草に関連する乳牛疾病の原因解明に関する調査・研究―特に社会的・技術的背景を中心にー』でした。演習、卒論とも篠原功助教授と共に指導が大変厳しかったのを覚えています。まだ大学院を持たない時代の卒業生からその後博士号を取得した方が多いのもこの厳しいご指導の賜物かと思われます。卒業後も勉強を続けなさいと励まされて卒論をまとめて学会発表や「畜産の研究」誌に寄稿することができました。卒論の追跡調査を10年後、20年後とに行い、北海道草地研究会で発表することができました。卒業後旭川大学で地域研究所等に11年間勤め、1990(平成2)年から当地平取町で酪農牧場に勤務してからも「酪農をしながら研究することも大切だ」と声を掛けて下さいました。

4.樋浦誠先生と私

樋浦誠先生は私が酪農大学に入学した時は既にいらっしゃらず、学問上の事で、直接教えを受ける事はありませんでしたが、1978年の冬の道北三愛塾(名寄道北クリスチャンセンター開催)に参加して樋浦誠先生に初めてお会いしました。ちょうど先生が80歳の時でした。道北三愛塾の記録を当時勤めていた旭川大学地域研究所に導入されたコンピューターのワープロで入力して印刷会社に渡し印刷した事を思い出します。道北三愛塾の貴重な記録となっています。そのようなことから福島恒雄牧師(短期大学創期生)が『北海道三愛塾運動史―樋浦誠先生の歩んだ道』(1987年刊)を出版される際に酪農大学教授で各地の三愛塾の講師であった太田一男先生と共に刊行会をつくり、私は樋浦誠先生の年表や著作・論文一覧の作成に加わりました。

その折、論文のコピー等を蒐集するために当時東京世田谷の成城のご長女高柳幸子さん宅にお住まいであった樋浦先生をお訪ねし、近くの経堂にあった東京農業大学の図書館でコピーを入手することができました。また、私の妻の実家が成城からすぐ近くの狛江であったことから、上京した折には樋浦先生とご長女の幸子さんから数々の逸話をお聞きすることができました。

5.樋浦誠先生が遺された資料

樋浦誠先生は1991(平成3)年1月に93歳で召天され、その偉大なクリスチャンのご生涯を終えられました。その葬儀にも出席することができ、当時酪農学園長であった遊佐孝五先生が切々と読み上げられた弔辞の事を思い出します。1983年にソノ夫人を亡くされていた樋浦先生は1988年90歳の折には東京のご長女宅にお住まいを移されましたが、浜松市の聖隷学園内にあったご自宅や資料、所蔵品は残されたままでした。先生の召天後1993年頃に自宅は解体し、資料等を整理したいがとご遺族から私にご相談がありました。

当時私は平取町に移り酪農場に勤めていましたから、相当量の資料であってもD型ハウスに収納することは可能でしたので、運送の費用の捻出を考えていました。しかし、私が受け取っては死蔵させてしまう恐れもあるし、やはり酪農学園で受け入れていただくのが良いように思いました。そこで恩師の原田勇先生にご相談したところ、学会出張の折に中身を確かめて出来れば酪農学園に引き取りたいとのご意向でした。1994年に当時聖隷学園高校の教頭であった酪農学科7期卒の秋葉保さんに立ち会っていただいて確認することができたとのことでした。原田先生は当時の学長であった平尾和義先生にご相談され、運送経費は酪農学園で負担していただくように了承が得られたとのことでした。荷造り発送は秋葉教頭が手配して下さり、段ボール箱100箱もの図書、論文抜き刷り、原稿等が到着しました。資料は酪農学科2期卒の篠原功助教授のご努力で、とわの森三愛高校に統合後使われていなかった機農高校の校長室に搬入され、一部を展示し、他は確認の上箱詰めのまま保管されました。

資料が一部展示された事を知った学園教職員やOB・ОGが見に来られるようになりました。資料も膨大であり、学園での樋浦先生の評価についても様々な受け取り方が残っていた当時の状況であったので、篠原先生は「本格的な整理、展示は歴史的時間が必要」とのお考えであったので、原田先生もそれを受け入れられたようでした。受入後の1995年、1999年、2000年とご遺族が来園され展示を見て行かれたが、この状況をご理解いただきました。また、1999年にご遺族が来園された折には福島恒雄牧師と渡辺兵衛牧師(酪農学科7期卒、当時野幌教会)がご一緒に資料の確認をされました。

6.樋浦誠先生の資料の整理・展示と遺稿集の刊行

2010年に刊行された『樋浦誠先生遺稿集』のあとがきに安藤廣さんと仙北富志和さんが記しているように、旧機農高校校長室等に保管展示されていた資料が同窓生会館(旧短期大学校舎)に移設展示され、別途同窓会事業による樋浦誠先生の肖像画が掲げられたのは2001(平成13)年のことです。仙北さんのあとがきにある原田勇先生が1988(昭和63)年ころに運んだとあるのは先に記したように1994(平成6年)のことです。

7.原田勇先生の足跡

本稿ではアジア酪農交流会の事についてはほとんど触れてはいませんが、原田勇先生は本来の教育・研究の他にも三愛塾や樋浦誠先生に関することを始め、学園内外の色々な事を引受けて下さっていた事の一端を皆様にお伝え出来ればと筆を取った次第です。また、この樋浦誠先生の資料が酪農学園に届けられたいきさつを、どこかに書いて置くようにとのご指示をいただいていれもおりました。このような様々な事が80歳を過ぎて酪農学園長に就き、学園の将来を指し示す仕事に5年以上にわたって全身全霊を捧げたお姿を支えていたことと思います。十分に生きられた人生、85年の生涯であったと信じます。人と人との繋がりによって酪農学園そしてアジア酪農交流会が発展しますように祈ります。そして導いて下さった偉大なクリスチャン原田勇先生を偲ぶものです。


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